退職してから2年がたちましたが、状況は一変しました。
平成30年3月から12月まで
平成30年3月に退職し、次女の就活に付き合い、5月末に内々定。10月に内定式に出席ました。
仕事と夫との生活に限界を感じ、仕事を辞めたのですが結局11月には二人の関係は破綻し、別居しました。
そして12月にいつもより遅く特定検診とがん検診を受けました。年末に市役所から連絡があり、年末から年初にかけて附属病院を受診しました。
平成31年1月から12月
そしてまさかの乳がん発覚。告知や手術の説明なども一人で受診しました。
2月14日のバレンタインの日、全摘手術を受けました。ステージは「2a」でした。そして3月3日のお雛様の日、退院しました。その時、長女は教師を辞めて関東に彼氏と行こうとしていました。
次女は4月から関東で1か月の研修、その後中国地方に配属、引っ越しです。
がんが発覚して、二度と夫とは一緒に住まないことを決心しました。そうはいっても私は無職のがん患者。子どもたちもこれから自立しようとしているところで、とても頼りにはなりません。
しばらくは別居を継続し、婚姻費用をもらっていました。その間、義実家とはもめにもめ、兄にも連絡がいき迷惑をかけたこともありました。
夏ごろになって、離婚に伴う財産分与の件が片付きいずれ離婚することは決定しました。
そして、夏に夫から辞職する旨を聞きました。日付のこともあり、9月30日付で退職。その手続きに、職場や共済組合、病院、銀行、市役所など一緒にわまってしました。
離婚は令和元年12月、令和2年3月、令和3年3月の案がありましたが、保険証の扶養に入れてもらっていたので、令和2年3月か令和3年3月が有力でした。
令和2年1月から現在
そして、出会い系サイトに登録することにしたので、令和2年3月に届けを出すことにし、夫に2月に話をし、3月に入って用紙を記入、保証人欄は兄夫婦に頼みました。
3月31日、一人で提出しました。
4月に入って、不動産の名義変更に元夫と法務局に出向きましたがそれについては別記事を考えています。
退職 → 別居 → がん発覚 → 夫退職 → 離婚
長い長い暗闇からやっと解放されました。離婚に踏み切れなかったのは、子どもたちの養育費、財産分与で義実家と納得のいく話は期待できないこと、離婚すれば夫は仕事を辞めただろうし、そうなれば約束したはずの養育費も支払われないことになりそうだったからです。
結局、子どもたちが自立のめどが立つまで我慢することになりました。結果的にそれが病気を引き起こしたのかもしれませんが、今は病気になったことで離婚に対して前向きになれたし、無職だったこともあり財産分与については引くことはありませんでした。最後は離婚調停、裁判まで考えていましたので。
そうはならず、最後は私の考え通りに分割してくれた元夫には感謝しています。お互いつらい結婚生活でしたが、子どもたちは二人とも自立し、我々は50台でアーリーリタイアできました。